永富独嘯庵
姓は永富 諱は鳳。字は朝陽、通称は鳳介。号は独嘯庵。 享保十七年二月十四日豊浦郡王司村字宇部の勝原家三男に生まれた。下関の医師永富友庵に養われて永富家を継いだ。
十一歳で古人の節を慕い、好んで経史を読む。良師友無きを憂い、ある夜青銭百文を懐に、京都を指して家を出た。人これを諭して曰く、
どうもお前さん、子供であるから致し方も無い。百里の京都へ僅か青銭百文位で行かれるものか。 (青銭:寛永通宝四文銭の俗称。)
鳳、笑って応えるには をぢさんこそ迂遠な人だ、鳳が家を出たと気付いたらきっと親が追っかけて旅費を呉れるよ。
京都に遊学すること一年にして帰り十三歳で萩に出て医を井上某に学び、儒学を山縣周南に学んだ。十四歳、去って遠く江戸に遊び、十七歳養父の命によって下関に帰り、尋いで再び萩に出て周南に学ぶ。また久しからずして下関に帰るが、陰かに医を厭う心あって塾を開いて六経を講述した。
時に安達某京都より帰って、人に益あるの医は香川秀庵、山脇東洋か、と言うので、鳳乃ち又志を立てて、実弟小田享叔を伴うて、京都に出た。東洋門には萩の栗山文仲があって、これに頼んで入門。時に宝暦元年。また、奥村良筑に吐方も学んだ。医を学ぶこと三年。この頃
道を学ぶは志である。医を行なうは業である。志を以て業を廃せず。業のために志を棄てず。
志は勉めねばならず、業は精しからねばならぬ。古の人道を抱いて耕漁の間に隠るるものあり。 天下を憂ふるの心を以て、耕漁を益し民を思う。
と言ったという。
時に長崎の人飛鳥翰、東洋の塾に来り学び、鳳と親しく交わる。翰の郷人、長慶は清人より精糖の法を伝え知っており、鳳は兄吉太夫と共に精糖法を学んだ。兄、吉太夫は長府に帰り長府に精糖場を開いた。鳳は遊歴を好み京都に在って半年は大坂、伏見、奈良、岐阜、名古屋を往来したが、名古屋にあるときに彼の地に精糖法を伝えたという。 宝暦五年三度萩に来たが、このとき精糖法の中でも特に初めて小郡の甘蔗から白砂糖を作った。所は江向水車筋、大寧寺宿坊という(現在の浦上美術館・合同庁舎前)。
宝暦六年、幕府はその精糖した砂糖を密輸入にあらざるなきかを疑い長府藩を詰問。萩藩はことを恐れ吉太夫と鳳を投獄。獄中にあって鳳は抱道論外四編を著されたが、これらの著作はまとめられ嚢語と名づけられた。嚢語は出所、道術文武、将法、時弊からなるが、抱堂論は道術の項にあたる。 ほとぼりが冷めた後、鳳は獄を出て、下関に帰った。数年間、医に従事する側、学塾を開いたがその学風は実弟小田享叔により長府藩へ、亀井南溟によって福岡へ伝えられた。後、大坂で開業し名声が高くなったが三十五にして彼の地で没し、城南の蔵鷺庵に葬られた。大正御大典に際しては正五位を贈られた。 著書に『漫遊雑記』『嚢語』『吐法考』『黴瘡口決』などがある。
参考、『萩市史3巻』昭62 萩市 『二州の礎』昭15 山口県教育会
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