◆明倫館儒学者小伝
著書、公室譜牒・諸臣系譜・為学初問・講学日記・作文初問・養子説・周南文集・周南詩集等。付・明倫館を命名したのは周南。孟子中「皆人倫を明らかにする所以なり」・特に滝鶴台・林東溟・和智東郊の三人を県門三傑と呼ぶが、この中に明倫館の学頭になったものはいない。・周南の旧宅地は浜坊筋(現土原三三二番地、江山信雄氏宅地)にあり、その屋敷跡には昭和十年頃まで周南梅と称 する紅梅の老木が残っていた。花の咲く時期になると杉民治などはそこで周南を偲んでよく花見をしたことがある、という(河野道氏談、花見を共にした氏の父河野三千世の直話による)(『史都萩 第13号』より)
著書、長門癸甲問槎・鶴台漫筆・鶴台遺稿・三之逕等。鶴台遺稿十巻は、安永七年上梓、米沢藩主上杉治憲の序文を載す。
年少の頃は、家が貧しいなか父母に孝行を尽くした。余力で文を学び明倫館に入り都講となる。後、近侍となり江戸に祗役。屡々機密に参加し寵偶を受ける。 人と為り、恭謹和順、群居争わず、友に対しては信義を守った。其の学才は天性のものであった。 明和三年の春、再び藩主にしたがい江戸あったとき、病を得て桜田邸に没す。年四十五。 その髭と髪は大照院へ埋葬された。
著書、所学則集詁評語一巻参考文献:『増補近世防長人名辞典』『増補防長人物誌』
参考文献:『増補近世防長人名辞典』『増補防長人物誌』
著書、国史簒論・民政要編・礼記備考・儀礼備考・周官備考・中庸文脈・臣軌解・芸窓筆記等
付・明倫館跡地にある明倫小学校には、太華作の重建碑が残る。・村田清風は、大塩平八郎が脱稿したばかりの『洗心洞剳記』を、平八郎の親友斉藤方策から借りて読み、感動して太華に勧め、平八郎を訪問させて修学次第を聞き出したという。
著書、唐詩趣・八江紀聞
著書、華陽文集付、山根華陽・南溟の墓は梅岸寺にあったようですが、梅岸寺は既にありません。跡地に墓地はありますが、そこでは二人の墓は確認できませんでした。※山根華陽撰菅公廟之碑(於、金谷神社)
著書、南溟集。この南溟集は、藩主斉房の特旨によりその資費を給されて上梓、清末藩儒国島常棣これに序を撰した。この序文に於て南溟の人となりと学風を知ることができる。
付、豊城は村田清風の師でもある。 号から察すると豊浦の出身か。※繁沢豊城の墓(於、徳隣寺)
写真の左側にはまだ生きている榊がさしてありました。しっかり手入れがされています。
※小田村鄜山の墓(於、享徳寺)
付・嘉永六年頃には世子の近侍。安政三年頃には世子御附番頭兼御書物掛を勤める。・吉田松陰は十七才にして履軒より西洋陣法を学ぶ。・嘉永二年頃に御手当御内用掛を命ぜられて、長州北西の防備を巡視。※飯田履軒の墓(於、享徳寺)
◆その他長州の儒学者
著書、日本古今人物志・四書標注・遯庵詩集・三体詩詳解・杜律標注・近思録標注・錦繍段標注・千家詩標注・文選音註・小学詳解・職原抄首書・蒙求詳説・蒙求爵位考等。 付、荻生徂徠は幼少の砌、遯庵の著書で勉強をした。周南を介した遯庵宛書状でそのことに触れている。(当サイト中、「徂徠集 長州藩人士関係分目次」参照)
著書、学範・藍泉漫筆・藍泉一家言・大道公論・藍泉新語等。付、徳山藩藩校、鳴鳳館の名前は亀井南冥が名付けた。 荒木見悟氏による伝記『島田藍泉伝』がぺりかん社より刊行されています。
※山田原欽の墓(於、蓮池院) 墓石の文字をなぞると学問が上達すると言う伝説があるそうです。
著書、山稿集。 付、文中の役藍泉浄観は同じく徳山藩の本城紫厳の誤りと思われる。
付、越氏塾と称するのは、河野氏が越智氏の族で、世々その家塾で子弟を教えて来たからである。
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