◆明倫館儒学者小伝 
 

○山県周南 孝孺

 周南は山県良斎の次男。長男早世し、周南が家を嗣ぐ。幼少より父良斎に家学を受け刻苦勉励、書籍少なきため諸寺・権門を訪ねて仏老医卜の書から稗官野史に至るまで借覧した。十九歳の時、江戸に赴き荻生徂徠に師事、門下にあって周南と安藤東野とは、早くその門に登って羽翼をなし、太宰春台。服部南郭・平野金華・高野蘭亭・宇佐美しん水に徂徠を加えて蘐園の八子と呼ばれた。従学三年にして帰藩。正徳元年、韓使来聘に際し長州の儒士これを赤間ヶ関に応接唱酬したが、周南の文才の俊逸に韓使大いに賞揚し、雨森芳洲その座にあって、目するに海西無双と称した。芳洲は対馬の半儒で常に韓使と折衝し、音韻に長じていた。
 享保四年、藩校明倫館の創設に当たり、周南の計画に俟つところ多く、儒臣佐々木源六と共に、学官の制を審議し、延喜式に拠り、支那歴朝の制を参考し、昌平校の学式を調べ、釈奠養老の礼を興し、諸儒を集めて諸生を教導した。
元文二年小倉尚斎の後を承けて、明倫館二代学頭祭酒に就任、学規を整え、元文六年には長門国明倫館記を撰して建学の要旨を述べ、教導その法を得て門下に多くの俊才を輩出し、この人々が周南の羽翼となり、詩文を重んずる蘐園の学風蕩々として、城下はもとより、防長二州全土を風靡し、一世の文運を宣揚して享保以後、天保、弘化期に至る百二十余年間、防長の学界を支配した。
 周南の学は一に徂徠学説を遵守し、経術・文章をもって宗となし、文は則ち秦漢、詩は唐明の風に帰した。博覧強記、最も国史治乱興亡の跡に精しく、皇朝の文物典故、諸家譜に明るかった。数多い門弟のうち、滝鶴台(長ト)
林東溟・和智東郊・山根華陽・小田村鄜山(ふざん)・小倉鄜門(ろくもん)・津田東陽・田坂覇山・仲子岐陽窪井鶴汀を周南十哲と呼び、これらがその学統を継いで、多く藩の学職に就いた。宝暦二年没、六十六歳。

著書、公室譜牒・諸臣系譜・為学初問・講学日記・作文初問・養子説・周南文集・周南詩集等。


・明倫館を命名したのは周南。孟子中「皆人倫を明らかにする所以なり」
・特に滝鶴台・林東溟・和智東郊の三人を県門三傑と呼ぶが、この中に明倫館の学頭になったものはいない。
・周南の旧宅地は浜坊筋(現土原三三二番地、江山信雄氏宅地)にあり、その屋敷跡には昭和十年頃まで周南梅と称 する紅梅の老木が残っていた。花の咲く時期になると杉民治などはそこで周南を偲んでよく花見をしたことがある、という(河野道氏談、花見を共にした氏の父河野三千世の直話による)(『史都萩 第13号』より)




○滝鶴台 長ト 弥八 亀松

 鶴台は木匠引頭(いんとう)市右衛門孝清の長男、家督を弟に譲って藩医滝養生の嗣となる。享保七年、十四歳で明倫館へ入学、主として山県周南に徂徠学を受け、のち藩家老毛利広政に仕え、その命により江戸に遊学、徂徠没してすでに三年、服部南郭に従学し、平野金華・秋山玉山。太宰春台等の蘐園諸子と親交し、また細井平洲・山脇東洋・吉益東洞・香川修斎太冲と深く交わりを結んだ。宝暦十年五十二歳で江戸に出て芝の御成門の側に帷を下して教え、名声高く諸侯を始め従学者甚だ多かった。米沢藩主上杉治憲鷹山も弟子の一人である。同十二年、藩主毛利家の一代儒者として仕官し、宝暦十三年癸未の末から明和元年の甲申の初めに、朝鮮通信使来聘、これと赤間ヶ関賓館に唱酬接伴し、韓使は鶴台の学の該博深遠を激賞した。この時の献酬詩語を収録したのが、長門癸甲問槎二巻で、明和二年、長門明倫館版として出版された。
 鶴台、その学は極めて該博、経史の外、儒医の傍ら博く釈氏の書を窺い、仏学に精通し、その著、三之逕一巻は儒教・仏教・道教の三者を併唱して比較折衷し、人間の死生安心の道を説いたものである。太宰春台は嘗て鶴台の学才を「西海第一の才子」と讃称した。安永二年没、六十五歳。

著書、長門癸甲問槎・鶴台漫筆・鶴台遺稿・三之逕等。
鶴台遺稿十巻は、安永七年上梓、米沢藩主上杉治憲の序文を載す。

 

○和智東郊 棣卿 九郎左衛門

 世々毛利家に仕える。祖父資實、父資高という。幼くして父を喪い年十一にして出仕する。
 山県周南に従学し、周南が世子に侍講するとき、東郊も一緒に学んだ。
 享保十五年江戸で武庫監、次に長崎邸監、ついで江戸留守居役となる。職に在って勤労数十年一日の如く働き、藩主より禄を加増された。晩年は淋病を患い、家に篭ったが非常の時は必ず召されて諮問を受けた。
 その詩は李滄溟を模して、体を為さないことが無かった。そして晩年の作品は大変王弇州のものに似ていたという。文は李滄溟を学んで甚だ似ていた。荻生徂徠は其の少年時の詩をみて感歎し「海内の才」と称し、朝鮮通信使もその詩歌を大いに賞賛した。
 明和二年六月二十三日没年六十三。

著書、東郊文集、虚実見聞記、東郊座右記等

参考文献:『増補近世防長人名辞典』『増補防長人物誌』
 


 
○仲子 岐陽(ナカノコ キヨウ) 由基 子路

 年少の頃は、家が貧しいなか父母に孝行を尽くした。余力で文を学び明倫館に入り都講となる。後、近侍となり江戸に祗役。屡々機密に参加し寵偶を受ける。
 人と為り、恭謹和順、群居争わず、友に対しては信義を守った。其の学才は天性のものであった。
 明和三年の春、再び藩主にしたがい江戸あったとき、病を得て桜田邸に没す。年四十五。 その髭と髪は大照院へ埋葬された。

著書、所学則集詁評語一巻

参考文献:『増補近世防長人名辞典』『増補防長人物誌』
 



○田坂灞山 長温 子恭 彦七

 本姓は竹中。田坂半右衛門の嗣となる。学を好み初め津田東陽に学び後、山県周南門に遊ぶ。
 博学多識。特に詩に詳しかった。しかしその才を人に見せることはなく、詩は専ら自らの楽しみとするのみであったので同僚にも彼の好学を知る者は無かった。
 人と為りは恭倹、才に誇らず、人と争論することがなかった。沈敏事務の才能があり書院の小姓役となるが、病を得て離職。宝暦八年四月十五日没。年三十九。藩主宗廣はその学才を愛し、近侍させようとしていたが果たせなかった。
 臨終に際して曰く「天生斯人 不假其壽 是耶非耶」


※田坂灞山の墓(於、善福寺)



参考文献:『増補近世防長人名辞典』『増補防長人物誌』
 



○山県太華 示貞 半七 文祥

 太華は二代明倫館学頭山県周南の後裔。家学を受け、明倫館に学び、ついで筑前に赴き、鎮西徂徠学派の重鎮亀井南溟に就いて蘐園古文辞の学を修めた。のち江戸に赴き、たまたま宋学の盛行を見て自ら悟り、その祖先周南以来の道統をふむ家学を捨てて宋学に帰した。藩主斉元の側儒となり、文化七年明倫館学頭小田村藍田病疾のため、その助役となり、同九年中村華獄と共に学頭兼勤、各番交代を命ぜられ、文化十四年世子斉広に句読を授け、文政七年学頭座勤務を解かれ側儒に復した。
 天保六年、役人格に班し、学頭・祭酒となり、明倫館学風を朱子学に改めた。藩主敬親、弘化三年、萩江向の地一万四千三百四十九坪を画し、藩校明倫館を移転拡張し、嘉永二年落成したが、太華の画策する所多かった。彼は聖廟に朱子学派の信奉する周公元・邵康節・二程純公正公・張公明・朱文公の六子を従祀して朱子学派による明倫館教育の基本方針を具象し、一藩の学風を朱子学に向かわしめた。ために、家塾までが皆朱子学説を宗として講学するに至った。また嘉永二年の移転重建を機に、学規・式目。作法を改め、学則その他の改正を断行した。
 太華は学館重建完成の翌嘉永三年職を免ぜられ、翌四年藩命をもって四書集註の訓点を改めて明倫館版教科書を作り五年隠居したが、学館完成の翌年辞職したのは、急激な改革に対する反動ともみられよう。慶応二年没、八十六歳。

著書、国史簒論・民政要編・礼記備考・儀礼備考・周官備考・中庸文脈・臣軌解・芸窓筆記等


・明倫館跡地にある明倫小学校には、太華作の重建碑が残る。
・村田清風は、大塩平八郎が脱稿したばかりの『洗心洞剳記』を、平八郎の親友斉藤方策から借りて読み、感動して太華に勧め、平八郎を訪問させて修学次第を聞き出したという。
 



○小倉尚斎 貞

 尚斎は萩藩医小倉宗爾の第三子。夙に京に赴き伊藤坦庵の門に学ぶこと三年、帰藩して藩主吉広に仕え、翌年再び京に出て諸大家を訪ねて学識を博め、逗留十四年に及んだ。のち藩主吉広に従って江戸に遊び、林大学頭鳳岡の門に入って研修し、その助講(会頭)を勤めた。正徳元年、朝鮮通信使来聘の際、彼らと唱酬し、学士李東郭は、尚斎の文才を賞嘆して「有日東書士総能文、大手騒壇独許君之語」の句を与えた。将軍家宣、彼の学才を聞き、召し抱えんとしたが、足跛の故をもって辞退した。
 享保四年、六代藩主吉元、藩校明倫館を萩城三の郭内に創建、尚斎は擢んでられて学頭祭酒となり、学規を制し、課程を定め、諄々学徒を教導すること十九年。反抗の基礎を築き、一藩の教学彬々と興隆に向かった。元文二年没、六十一歳。子なく、鄜門を養嗣として家職をつがせた。

著書、唐詩趣・八江紀聞
 



○小倉鄜門 実廉 彦平

 鄜門は防州三田尻警固方中船頭山本九左衛門孝純の季子。幼より学を好み、三田尻越氏塾に入って河野養哲の薫陶を受け、享保六年秀才をもって萩明倫館に入り切磋琢磨、学業大いに進み、その名都下に著わる。祭酒、小倉尚斎、五十歳にして嗣子なきため、養嗣となり小倉氏を称した。
 山県周南に徂徠学を受け、明倫館都講、元文二年講師に進み、祭酒山県周南と共に国譜牒を修した。この年、父尚斎没して家禄を嗣ぐ。寛延元年侍講となり、命を受けて朝鮮通信士の来聘に際し、防・長両関に唱酬し、その声明を博した。宝暦五年藩主宗広に従って東覲し、世子侍講となる。宝暦十二年、祭酒山根華陽の後を受けて五代学頭祭酒となって学政を統べ、安永四年まで学頭在職十四年、明倫館学職にあって諸生を教導すること凡そ四十年に及んだ。安永五年没、七十四歳。男実文、家禄を継ぐ。

付、『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』では「鄜門(ふもん)」と呼ばれていますが、墓に刻まれた名前や地元の史家の呼び名は「鹿門」となっています。
 



○小倉遜斎 実敏 尚蔵 公修

 遜斎は萩藩士内藤之重の三男、文化九年、八歳で世儒小倉実光の養嗣となって家職を継ぐ。小倉家は、明倫館初代学頭小倉尚斎の後裔で、儒をもって仕えた累世の名家で、内藤家とは姻戚関係にあった。
 遜斎は明倫館に入って徂徠学を修め、のち江戸に遊学し、文化七年二十歳で明倫館助講となって諸生に教え、天保八年三十二歳で藩主敬親の侍読となり、天保十二年、江戸桜田藩邸内に有備館の創設されるや、その学制及び釈奠の式を定め、その基礎を固めた。 また先藩主斉広の事斯語二巻の編輯上梓の事に与り、別に詳註を著わした。また弘化二年江戸に扈従した際、御蔵版国史簒論・民政要編の上梓御用掛を勤む。(中略)
 遜斎は安政三年、明倫館学頭・祭酒となって、一藩の教学を司り、同七年御密用御編輯御用掛等を兼任し、慶応三年に学頭を辞任したが、なお学職にあって、藩主に歴仕し、一藩の教学に尽粋すること四十五年に及んだ。廃藩の後、郷閭の間に寓し、後進を教導し、人材の育成を終身の業とした。明治十一年没、七十四歳。男実三、家を継ぐ。

 



○津田東陽 泰 士雅 忠助

 東陽は萩藩士八谷通良の男、出でて藩儒津田忠之の嗣となり津田を称した、藩儒山県周南に師事し、周南門下十哲の一人として、その秀才を称せらる。給費生に抜擢されて明倫館に入り、のち京都遊学三年に及んだ。享保十八年、江戸に祇役し、藩主吉元の侍講となったが、寛延元年帰藩、山県周南病疾により学頭の学務を仮摂し、のち、しばらくして三代学頭祭酒となり、なお侍講をも兼任した。
 東陽、その人となり簡重寡言、沈毅にしてよく事に任じ、詩を説き、書を講じ、傍ら音律を能くし、諸生を教導すること二十有余年に及び、門下に逸材多く輩出した。宝暦四年没、五十三歳。

※東陽津田先生の墓(於、享徳寺)


 



○山根華陽 之清 又三郎 子濯 七郎左衛門

 華陽は三田尻警固方小船頭山根七郎左衛門善勝の兄手舸子五郎左衛門の子、叔父善勝の婿養子となる。華陽、幼少より三田尻越氏塾に入って河野養哲に従い、享保四年俊才をもって選ばれ明倫館に入り受廩生となる。同六年京に赴き伊藤東涯に仁斎学を学ぶこと3年にして帰藩し、明倫館会頭となる。ここに華陽、旧学を捨て、山県周南に従い、一意古文辞の学に従事し斯学の深奥を究めた。元文三年毛利家軍記編輯を命ぜられ、同五年家督を継いだが中船頭の業を廃し儒業に改めた。延享三年祭酒山県周南病に罹り学事を督し難かったので、津田東陽等と館事を仮摂し、宝暦五年学頭座勤務となり、同六年からは小倉鄜門と年番交代となり、側儒を兼ねた。同九年学頭祭酒となる。同十二年病のため辞職す。その後も侍講の時の如く時々召し出されて諮問に応えた。
 華陽の人物・学識は、華陽文集に滝鶴台序して、「先生為レ人温恭敦樸、簡黙慎重、似=不レ能レ言者_、自謂拙=於媺辞_乏=藻絵_、是以其所=著述_未嘗輙以示_レ人也、而蓄レ力所レ造、積レ材所レ搆、語従レ情而得、筆承レ意而至、詩則無レ所レ不レ具レ体、文則嶷然自為=一家尊_、然無伝=諸通邑大都_、以求当世之名也」とあって、その言を尽している。
明和八年没、七十五歳。男南溟、家職をつぐ。

著書、華陽文集

付、山根華陽・南溟の墓は梅岸寺にあったようですが、梅岸寺は既にありません。跡地に墓地はありますが、そこでは二人の墓は確認できませんでした。

※山根華陽撰菅公廟之碑(於、金谷神社)



 



○山根南溟 泰徳 有隣 六郎

 南溟は明倫館四代学頭山根華陽の子。幼少より家学を受け三田尻越氏塾に修学し、安永四年二月、繁沢豊城と同じく学頭座所勤となって、側儒格に班し、隔年交代に勤務した。寛政三年、江戸邸に於て側儒に転じ、藩主斉房に侍講す。南溟は徂徠古文辞学を信奉し、詩文に長じたが、酒を嗜み、自ら酒禅と称し、遂に酒に沈湎して放縦の譏を免れなかった。寛政七年没。享年不詳。

著書、南溟集。この南溟集は、藩主斉房の特旨によりその資費を給されて上梓、清末藩儒国島常棣これに序を撰した。
この序文に於て南溟の人となりと学風を知ることができる。
 



○繁沢豊城 規世 権右衛門

 豊城は長府藩医上領伯仙の三男。学才があり、宝暦六年宗藩儒繁沢権兵衛規直の養嗣となる。豊城、初め長崎に遊学し、帰って萩明倫館に入り山根華陽に就いて徂徠学を研修し、宝暦六年二十六歳で明倫館助講、ついで翌七年、講師に進み、また治親の世子斉房に侍読し、安永四年、山根南溟と同じく学頭座所勤となって隔年交代に勤め側儒格に班した。藩主斉房襲封の翌年の寛政四年二月学頭・祭酒となって、学事を総掌し、役人格に列し、学頭職に在ること十五年に及んだ。文化三年没、七十五歳。

付、豊城は村田清風の師でもある。
  号から察すると豊浦の出身か。

※繁沢豊城の墓(於、徳隣寺)



写真の左側にはまだ生きている榊がさしてありました。
しっかり手入れがされています。



○小田村鄜山(ふざん) 公望 文甫 望之 士彦 権三郎 文助 伊介

 鄜山は防州三田尻警固方楫取、小田村喜左衛門の養子、本姓は山本氏。初め三田尻の越氏塾に入り、河野養哲に従学、小倉鄜門・山根華陽と同門である。享保四年萩に明倫館創設されるや、選ばれて入学し、山県周南に従学して徂徠学を修めた。享保十年江戸に赴き、荻生徂徠の門に入り、服部南郭・平野金華等と往来した。
 享保十四年帰藩、二十八歳で明倫館都講となってから、長く学職にあって諸生を教授薫陶し、城下大先生と称された。明和三年没、六十四歳。養嗣子藍田、家職をつぐ。


※小田村鄜山の墓(於、享徳寺)

 



○小田村藍田 直道 文平

 藍田は藩儒小田村鄜山の子。明倫館に入り、父に家学を受けて徂徠学を奉じ、明倫館都講となり、また三田尻越氏塾の教官となる。享和二年、繁沢豊城、老年病弱のため学頭助役となって扶け、文化元年学頭座所勤、同三年学頭・祭酒に進み、役人格に班した。同九年辞任。文化十一年没。七十三歳。

※小田村藍田撰並に書の「菅公廟之碑」(於、多越(たお)天神社)


『史都萩22号』では田中助一氏が同神社内に繁沢豊城の絵馬を確認しています。先日お神輿の行事で扉が開いていたので忍び込んで探してみたのですが、よくわかりませんでした。



○中村梁山 恭 子順 矢八郎兵衛

 梁山は萩藩兵学者中村篤舒の第四子。十三才の時藩主宗広に召され、試業を受けて賞せられ、のち藩校明倫館に入り、山県周南に就いて徂徠学を研修すること久しく、学業成り、明倫館都講に進んで諸生に教授し、明和四年より学頭を輔けて学事を掌り、儒職を兼務した。同七年江戸に祇役し、世子治親に講説し、またその子斉房の侍読となって輔導の任に当たった。
 梁山の学は蘐園古文辞の学を奉じたが、経術を専らとし、詩賦を後にした。藩主治親の初入国に際し、行程記十一巻を編して江戸より往来する道筋の名勝旧蹟を記述し、藩主行路の覧に供した。享和元年没、七十一歳。
 



○中村華嶽 敬 幾二郎 簡弼 勘助 九郎兵衛

 華嶽は藩儒中村梁山の子。父に家学を受け、明倫館で修学し徂徠学を奉ず。寛政九年嫡子雇いとして江戸に赴き、藩主斉房、世子斉熙及び長府藩主に講読すること前後二回、享和元年家督を継ぎ侍講、ついで文化三年側儒となり、藩主斉房・斉熙に侍読す。文化九年学頭を兼帯し、山県太華と輪番勤仕となり、生徒教導に当たった。
 文政二年、江戸に於て毛利家軍記編輯の命を受け、これを完成し新載軍記と名づけた。文政五年五月学頭・祭酒となって学政を統べ、天保五年積年の功により、了簡銀を永世禄とされ、同六年辞任した。天保七年没。
 



○平田涪溪 淳 士厚 新左衛門

 涪溪の家は世々大組の士で儒を専業とする家ではなかった。涪溪は幼少より明倫館に入って学習し、徂徠学風の薫陶を受け、経学・諸子百家を渉猟し、その学、該博綜精をもって知られた。嘉永三年十月、学頭山県太華辞任の後を受けて、明倫館学頭座御用取計を命ぜられ、漸く学政を統べたが、その職を解かれて教諭となり、嘉永五年十月辞任した。のち、家塾「稀翠疏紅書屋」で教導し、従学する者、頗る多かった。
 彼は明倫館にあっては、公職上、学則に従って朱子学を精細に講じたが、元来、徂徠学を好み、幼少より身につけて深く確信していた。隠居の後は家塾に於て、その多くは論語徴(徂徠著)・徂徠集を講じた。また彼は仏典に通じ、
地方僧侶の教えを請う者も多かった。明治十二年没、八十四歳。
 



○中村牛荘 任 文淵 伊助 士々庵

 牛荘は、幼時高所より堕ちて右手を挫き、それより専ら読書学問の道に進んだ。初め藩老宍戸氏の家人山田時文北海に句読を受け、寛政十二年十八歳にして藩校明倫館に入り、繁沢豊城に就いて蘐園古文辞の学を研修すること九年、文化五年一旦退学したが、文化九年再び入学して研究を積んだ。同十四年、学業精進して儒官となったが、文政四年退いて家塾に教授、従学する者は日々に増し、社を結び、経を講じ、文を論じて、士風衰頽・文教浮華の時弊を刷新せんとした。天保元年、再び明倫館講官となり、藩主斉元に侍講し、のり藩主敬親にも侍読して特に信任篤かった。敬親の時、嘉永二年明倫館重建、一大綜合学園が整備されるに至ったが、牛荘はこれに参画する所多く、嘉永五年明倫館学頭・祭酒となって学政を統べること四ヵ年、安政二年老をもって辞職し、明治元年致仕した。学職に在ること前後四十年、一藩文教に裨益するところ多大であった。
 牛荘その学は、初め深く蘐園古文辞の学を修め奉じたが、後その非を悟り、専ら程朱を宗として経を講じ、句章の末に走らず、大義を闡明するを要旨とした。明治二年没、八十七歳。男弼(浩堂)、家を継ぐ。

※中村牛荘の墓(於、泉流寺)


写真では見辛いですが「牛荘中村府君」と彫られています。
他の学頭は墓石に「先生」と彫られてありますが、これだけ違います。
となりには中村家の墓がありますが、中村浩堂がその中に含まれるかは不明です。
 



○中村浩堂 弼 子恭 百合蔵
 (浩の字は正確には捁の字の手偏がサンズイ)

 浩堂は、明倫館学頭中村牛荘伊助の子。萩明倫館に学び、家学を紹述して慶応二年、山口明倫館学頭座御用取計となる。山口明倫館というのは、藩主敬親、藩庁を山口に移し時局に備えるため、文化年間に創立された郷校講習堂を、万延元年明倫館支校としたもので、山口明倫館或いは鴻城明倫館と称した。
 浩堂は慶応三年正月、萩明倫館学頭座取計に転任し、享保以来連綿相承けた学頭職最後の事務取扱の任に当たった。明治元年二月、明倫館はその学制を改め、萩明倫館文学寮・兵学寮と改称された。明治二十八年没、七十三歳。



○飯田履軒 直方 左門 猪之助

 履軒は萩藩士、大組の士で儒業の家ではなかったが、明倫館学頭小倉遜斎の下にあって、万延元年二月、学頭座所勤を命ぜられた。直方は人となり温厚篤実であった。元治元年六月没。


・嘉永六年頃には世子の近侍。安政三年頃には世子御附番頭兼御書物掛を勤める。
・吉田松陰は十七才にして履軒より西洋陣法を学ぶ。
・嘉永二年頃に御手当御内用掛を命ぜられて、長州北西の防備を巡視。

※飯田履軒の墓(於、享徳寺)




 


◆その他長州の儒学者

○宇都宮遯庵 的 由的 三近 頑拙(1633-1709)

 遯庵の家は周防岩国藩士。遯庵は藩主広嘉から学資を得て京都に遊び、松永尺五に就いて研学、木下順庵・安藤省庵に遯庵を加え、尺五学派の三庵と称された。明暦三年二十四歳の時、主命を承けて帰り、儒員に列して文教を掌り、藩主・老臣、近習に講説する傍ら家塾に於て諸生を教導した。
 かつて日本古今人物史を著わし、中川清秀の伝に関し幕府の忌諱に触れ、岩国に禁錮されること数年、延宝三年赦されたが、それより京に出て教授に専従した。藩主広紀の元禄四年、再び召還されて儒臣となり講説に当たった。岩国藩の文教は、遯庵によって、初めてその道が開かれた。宝永六年没、七十七歳。嗣子圭斎、家職をつぐ。遯庵の弟子に戸川整斎・香川水月斎・宮庄閑鷗斎等の偉才が輩出し、それぞれ塾を開いて教授した。

著書、日本古今人物志・四書標注・遯庵詩集・三体詩詳解・杜律標注・近思録標注・錦繍段標注・千家詩標注・文選音註・小学詳解・職原抄首書・蒙求詳説・蒙求爵位考等。

付、荻生徂徠は幼少の砌、遯庵の著書で勉強をした。周南を介した遯庵宛書状でそのことに触れている。(当サイト中、「徂徠集 長州藩人士関係分目次」参照)



○宇都宮圭斎 三的 文甫(1677-1724)

 圭斎は藩儒宇都宮遯庵の子。遯庵は松永尺五門下の朱子学派であったが、圭斎は藩主広逵の命により伊藤仁斎の堀川塾で古学を修めた。正徳元年より父遯庵の如く、藩主・老臣・近習に講説した。同三年には月並講釈の制が定められ、毎月三・四・九・十・十四・十七・二十一・二十四・二十六・二十七の十日をもって文学の講釈日とし、広く諸臣の聴講を義務付けた。
 伊藤東涯は圭斎の墓銘に次の如く記して、「惟ふ昔遯庵先生、松永氏の門に及び、経を講じ徒に授く、久しく輦下に在りて、人の師尊する所、君夙に家庭の訓を承け、兼て先子(仁斎)に従って遊び、天資楽易、善く人と交る、家世々吉川家に防州岩国に臣事す、郷人学に嚮ふ、君力あり」(先哲叢談)と言い、岩国藩文教興隆の功を称している。
享保九年没、四十八歳。圭斎の門下から朝枝毅斎・宮庄紫畹等が出て儒員となり学塾を開いて教授す。



○島田藍泉 浄観 道圃 右京

 役小角の法系を紹いで、周防国徳山の教学院に居住し役氏を称した。初め藩儒国富鳳山に従って徂徠学の先例を受け、さらに江戸に赴き、滝鶴台の門に学んで徂徠学説を修得確信し亀井南冥とも親交した。
 享和三年紫巖の没後を承けて二代鳴鳳館学頭を継ぎ、学頭を統べた。彼は、従来その都度定められた学則を集大成して、学範一篇を制定し、鳴鳳館教育の基本を整えた。この学範は、徂徠学説に基づいたもので、当時の徳山藩学の制度・内容が、この一篇に詳述されている。門人に林正忠・浅見敏・松岡松陵・桜井玉樹・国富彦恭・町田淵・松原融等、多くの偉才を出し、蘐園の学風一藩を風靡した。文化六年没、五十九歳。

著書、学範・藍泉漫筆・藍泉一家言・大道公論・藍泉新語等。

付、徳山藩藩校、鳴鳳館の名前は亀井南冥が名付けた。
荒木見悟氏による伝記『島田藍泉伝』がぺりかん社より刊行されています。



○山田復軒 頼熙 舜兪 原欽 又三郎(1666-1693)

 復軒は周防佐波郡防府の人。京に出て伊藤坦庵及び宇都宮遯庵に従学して研鑽を積んだ。伊藤坦庵は那波木庵の弟子で朱子学を遵法し、越前福井藩に儒をもって仕えたが、京に住していた。宇都宮遯庵は松永尺五の弟子で岩国藩主吉川氏の儒臣、京に於て講説していた。共に京学系朱子学派である。
 復軒、延宝七年三代藩主綱広に召され、世子吉就の侍読となって輔道に当たり、吉就襲封の後も仕えて信任篤く、家中藩士子弟多く復軒の門に学び、萩藩の文教ここに開けた、天和二年朝鮮信士来聘の時、江戸本清寺で、彼らと筆談唱酬し、文名を高めた。時に復軒十七歳。当時朝鮮信士との応酬の役に選ばれることは、儒者の登竜門とされていた。その後彼は、故あって、元禄六年、壮年にして江戸藩邸で自刃した、元禄六年没、二十八歳。

※山田原欽の墓(於、蓮池院)

墓石の文字をなぞると学問が上達すると言う伝説があるそうです。



○品川鶴洲 希明 友哲 勿所(1683-1738)

 鶴洲の家は須佐領主益田氏の家臣。鶴洲は元禄中、領主益田左衛門佐就賢の時、十一歳で萩に遊学を命ぜられ、長じて京に出て伊藤東涯に師事し、古義堂に寓して修学すること数年、業成り帰邑し、享保中領主益田越中元道に儒をもって仕えた。また家塾を営んで家中子弟に教授し、従学する者も多く、領主もまた時々召して講説を聴いた。その学は師説を確信して古義を遵奉し、宋儒の説を禅に近いものとして排斥した。この頃すでに郷校育英館の濫觴を見ることができる。元文三年没、五十六歳。



○波田嵩山 兼虎 士熊 熊介 (?-?)

 嵩山はその遠祖、秦国より出て秦氏を称し、波田または波多氏となる、幼より学を好み、達材を見込まれて萩明倫館廩生となり、山根華陽に師事して厳正な薫陶を受く。同じ時入門していた徳山藩儒役藍泉浄観と互いに切磋琢磨し、 また滝鶴台にも従って教えを受けた。
 宝暦十三年癸未から明和元年甲申の初めに朝鮮信士来聘に際し、彼は長州儒者滝鶴台・草場大麓・山根南溟。瀧士儀・和智東郊等と共に赤間ヶ関賓館に応酬し、その文名を博した。ときの献酬詩語は集録されて長門癸甲問槎二巻とし、明和二年明倫館版として上梓された。明和中、領主益田広尭に仕えて文学となり諸生に教授した。彼は人となり質直、学は徂徠学の規範を確遵し、加うるに博綜、兼ねて国史、特に兵書に精しく、詩文にも長じていた。寛政中没。

著書、山稿集。

付、文中の役藍泉浄観は同じく徳山藩の本城紫厳の誤りと思われる。



○河野養哲 通文(1661-1727)三田尻越氏塾塾主

 養哲は三田尻在住、勝間の人。河野一族は世々水軍警固方の小吏。養哲は幼より学を好み、刻苦研鑽、遂に家業を捨てて医儒となり、医業の傍ら、家宅を塾として郷党子弟に講学、従学する者多く集まり、門下に偉才輩出す、四代明倫館学頭山根華陽、五代学頭小倉鄜門、明倫館教官小田村鄜山等、いずれも、養哲門下で、初め越氏塾に入って養哲に学び、ついで俊才をもって推されて萩明倫館に入学修行したものである。
 享保十二年、養哲の没後門弟達が遺言を守って藩府に請い費を得て、その家宅を修復して習業所とし、越氏塾と称した。のち武芸稽古所も加設され、藩府の援助を受け修輔料等の基金の制も成立し、士庶共学の郷校として発展した。
 享保十二年没。六十七歳。

付、越氏塾と称するのは、河野氏が越智氏の族で、世々その家塾で子弟を教えて来たからである。





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