小倉四賢墓所 
 


山口方面から萩有料道路を抜け萩市内に入る手前、右手に大屋川が流れています。その川沿いに小倉四賢墓所への道標が建っています。

 石柱の向こうに萩焼の窯元が見えます。その窯元の背後の山に墓所はあります。山と窯元の間の小道を登って行きます。


 あまり歩きません。すぐに鬱蒼とした山道の奥にお墓が並んでいるのが見えてきます。
 

 小倉四先生(尚斎、鹿門、南皐、遜斎)の墓碑が四基、そして小倉家墓碑が六基、また安藤紀一撰ならびに書の小倉遜斎顕彰碑です。
 この付近は和泉寺跡と言われていますが現在はこの墓所が残るのみです。
 この写真を撮っているカメラの背後は断崖絶壁です。危険ですので参拝者は注意してください。筆者はこの写真を撮ろうとして本当に落ちそうになりました。



小倉遜斎の墓と安藤紀一による顕彰碑

   



明倫館学頭となった小倉鹿門と藩主の侍講となった小倉南皋の墓

鹿門の墓の裏面には林東溟撰文による墓碑が、南皋の墓にはこれまた明倫館学頭となった中村華嶽による墓碑が刻まれています。

   

※小倉南皋 名、實文 通称、常右衛門 号、南皋

鹿門の長子。幼より家学を受け、仕えて藩の侍講となる。文化五年十月十八日没。年六十三。阿曽沼氏の子實光を養いて嗣とした。



明倫館初代学頭小倉尚斎の墓碑
尚斎の墓にも墓碑が刻まれています。山根華陽撰文のものです。






墓所の沿革

大正十五年六月十七日小倉遜斎門人のうち、萩に現存するものが集り、翌年五月十七日故遜斎五十年祭を計画し、遜斎先生の顕彰碑、参道などを設けこれに要する経費を募金することを協議し、発起者となって広く関係者の賛同を求めることが決議された。その後遜斎先生の記念にのみとどまらず四先生の祭典を行い墓地の修造も行うことになり諸手続き、諸準備も完了し昭和二年五月二十二日祭典を挙行し、墓地、参道ならびに墓所の維持修理費を萩町に寄付した。 なお土地台帳によると元来墓地とそれに近い参道の敷地は山本幾一の所有であり、参道の大部分は中村政一の所有地であったが、小倉遜斎先生顕彰会の発起者である安藤紀一、信国顕治が一旦買収した上萩町に寄付したものである。
(『史都萩 第20号』より引用)