明倫館二代学頭 山県周南の墓


 明倫館二代目学頭山県周南の墓は萩市北古萩(きたふるはぎ)の保福寺にあります。
 正面以外の三面には周南の事績等を述べた墓誌が刻まれています。これは徂徠学の同門であり友人である服元喬(服部南郭)が撰したものです。また正面には周南の名前と、大正十四年に追贈された「贈従四位」が刻まれています。
 なお、保福寺は明治初年に廃寺になっており、地蔵堂と墓地のみが残っています。道を隔てて斜向かいの海潮寺が管理を行っていますので、お問い合わせの際はご注意を。 

側面には墓誌がびっしり刻まれています。

元喬こと服部南郭は、徂徠の弟子の中でも詩文を得意とし太宰春台と並んで双璧と称される人物です。彼の文学は江戸中期の文学界に多大な影響を与えたと言われています。




墓に刻まれている墓誌の書き下し

周南先生、諱は孝孺、字は次公、一の字は少助、山縣氏なり。周の南、海北邑に生る。因て周南と號す。天性穎悟、年甫めて齔、句讀を受く。輙ち誦して流るゝが如し。稍〃長じて四子五經の大義に通ず。考良齋君、子弟の學を課する、頗る嚴なり。常に戒めて書を樓上に讀しむ。故無ければ下るを得ず。先生強力專精、日夜樓に在り。手卷を釋かず。是に於て四部の群籍、百家の雜説、渉覽の功殆んど遍し。年十九東遊し、物夫子に師事す。夫子修古を以て本と爲す。經義文章皆是より出づ。時に方に始て唱ふ。和者蓋し寡し。獨り藤東壁の從ふ有り。先生至れば則ち大に其の學を説く。東壁と相視て切劘す。夫子亦自ら其の人を得と稱す。爾後物家の學日に興り、從ふ者益〃盛にして、遂に海内靡然として風に郷*ふに至る。吾が黨今に至るまで二子の羽翼を以て、傳て稱首と爲す。東に居ること三年、業成りて歸る。正徳三年、韓使來聘。長門封疆赤馬關に至る。侯乃ち諸文學を遣して待接す。先生焉に與る。先生年尚少し。而も韓の諸書記と應酬敏捷、文才儁逸。韓人大に賞して之を異とす。對州の雨伯陽亦賓を擯す。坐次交歡す。目するに海西無雙を以てす。韓の三使先生が作る所を睹て、伯陽に因つて格外先生を請ひ見るに至る。

詳に
問槎畸賞及先生集中に見ゆ。是に於て聲名籍々、海内に著聞す。是後侯に侍す。東するに及び、世子の讀に侍す。侯朝勤すれば則ち東に從ふ。國に就けば則ち西に從ふ。泰桓公・觀光公に歴仕す。間年東西蓋し歳多し。寵待益〃隆し。元是に先つて先侯命じて泮宮を創建し、名けて明倫館と曰ふ。先生先に已に侯の爲に其の事を奬順し、其の制を與議す。是に於て崇化詞ォの道大に行る。元文二年館の祭酒倉尚齋卒す。先生代て館事を督す。乃ち復た東せず。既に祭酒と爲り、益〃學規を立つ。訓歯有り。育英の效日に月に益〃進む。講誦習礼絃歌の音斷えず。山子濯・田望之・津士雅・倉彦平・滕子萼・田子恭・仲子路・曾子泉・林義卿・瀧彌八・縣曾彦・秦貞文の若き、彬々輩出し、咸く先生の業を潤色して、學を以て世に顯る。其の餘の士大夫必しも學職を專にせず。而して傑然才を成し、名を知らるゝ者勝て計ふべからず。長門學を好むの俗、其の天性と雖も、葢し先生教化の力、亦居多と云ふ。先生人と爲りト悌にして事へ易し。其の教喩するや、道つて牽かず。開いて達せず。循々誘掖其をして己よりせしむ。故を以て生徒群を樂み師を親む。遂に濟濟の盛を致す。先生博聞の餘、時事に歴練す。其の經を執り、侯の講筵に陪し、或は間燕に侍して、啓沃諷諭、陰に匡濟の益を盡す。或は大夫有司と、謀を出し慮を發し、忠告裨益す。

大義を斷ずるに臨めば、則ち獨見の明に據る。侃々奪ふべからず。人盡く敬服す。喬が視る所を以て、
其の數〃東するや、同社の交固に弘し。先生温厚にして長ずる所を以て人に加へず。毫も忌克無し。遊驩の際襟、恢宏賞會、言笑怡々如也。皆其の長者爲るを推尚せざる者無し。先生国史・譜学・吾が邦の典故、諸家閥閲に精し。皆能く明辨す。嘗て侯命を奉じ、公室譜牒諸臣系譜を選す。他の著す所世に行はるゝ者、文集・爲學初問・作文初問、若干卷有り。延享二年、病を得、歳を經て已まず。凡そ褥に在ること八年、國相より之を憂ふる者百方治を求て驗あらず。寶暦二年八月十二日を以て終る。年六十六。國を擧げて悼惜せざる莫し。國城の北古萩の里保福寺に葬る。

君に致すに道を以てすは、師儒之を得。學を興し民を化すは、維れ誰か之を力めん。君子有らずんば、焉んぞ其の國を大にせん。徳の朽ちざる、永く言に矜式す。

友人 平安 服元喬 撰
後学 長門 艸安世 書



※読みやすいように、便宜上句読点を施しました。
※出来る限りオリジナルに忠実に旧字体にしましたが、パソコンの都合上やむなく当用漢字になおした字があります。

 



艸安世について

草場安世 字、仁甫 幼名、市郎 名、周蔵など 号、大麓

明倫館の額などを揮毫した書家草場居敬の養子允文の子。宝暦三年(1753)十月十二日、父の死により十四歳にして跡を襲ぐ。
明和十年、筆道修行のために遊学し、後明倫館に入り助教となる。宝暦十三年朝鮮通信士が来るに及んでは赤間ヶ関、上関に応接した。享和三年正月十三日没。享年六十四。
子の名前は謙。字は士享、号は晋水。