◆明倫館概要


 明倫館は享保三年(一七一八)に創建されてから慶応三年(一八六七)に実質的に幕を閉じるまで(安藤紀一説)
約一五〇年間防長二州の文教の中心として活動しました。
嘉永二年(一八四九)には学生の増加などにより江向の地へ重建されています。
嘉永の学生数は千人を超えていたと記録されています。


 ・教科

 列挙しますと。
漢学・音楽・医学・天文・地理・算術・筆道・礼式・兵学・射術・馬術・槍術・剣術・騎術・大砲・柔術・水軍・游泳・銃隊
重建以降は国学・洋学

 漢学は基本的に儒学を学びます。哲学論・倫理論・経世済民論・漢詩・文章・歴史等です。
音楽は、古代中国では教養として欠くべからざる教養でした。二代学頭山県周南が属する徂徠学派は
この音楽の役割を重要視しており、また当時の藩主宗広も音楽教育を奨励しました。そのため当時の
萩城下は「糸竹の音、洋々として耳に盈つ」状態だったそうです。
また太平の世が続き緩んだ武士の綱紀粛正のための意図から、武の面にも力が入れられていて、講義
が終わった後は、終日武芸の稽古が課されます。

 余談ですが、どうも昔から勉強ばかりしすぎると病気になると言われていたようで、吉田松陰の手紙の中に
学問とあわせて剣術の稽古をしているので病気になりません、といった類のものがあります。


・年中行事 『釈菜の礼』

 先聖先師を祭る儀式の事です。春秋二回行います。春は藩主が自ら祭り、秋は学頭が祭ります。
祭る神は主に孔子、顔回、曾子、子思、孟子です。
幕末には菅公を合祀し、また祭儀方法も神式によったこともあるそうです。

 また、合わせて「養老乞言」の礼が執り行われました。
武家で七十以上の老人を五人、庶民で八十以上の老人を四人、いずれも学徳の高いものを明倫館に招き
ます。藩主は酒食を共にして老人を敬い、その言に耳を傾け、記念品を下賜しました。


・学風

 創立者である藩主毛利吉元、初代学頭小倉尚斎は共に幕府の朱子学者林鳳岡に学びました。
それ故、創立当初の明倫館は、全て江戸湯島の聖堂を模範として、朱子学が学問の中心でした。
 しかし二代学頭の山県周南は荻生徂徠を師としていました。徂徠学は強力に朱子学を批判する学問
でしたので周南が学頭となってからは明倫館の学風は一変し、徂徠学を奉じることになります。
以後百数十年、西国における徂徠学の牙城として活躍することになります。

 朱子学と徂徠学は互いに批判しあう間柄です。周南に即して言えば当然他の朱子学者との衝突や、また藩主
から林家(朱子学)への入門を強要されるといった摩擦もありました。彼はこのような難局に対し

「来者来 去者去 若夫疑民於河漢者 吾豈敢」(『講学日記』前文)
(来るものは来たれ、去るものは去れ。どこまでも果てしなく疑うような人は私にはどうしようもない)

という態度で接し、また林家へは師、徂徠の承諾を得て形だけの入門をしています。
苦労の結果、周南の晩年頃の明倫館は学風が徂徠学にほぼ統一されていたようです。

 天保六年(一八三五)に至り、学頭であった山県太華は山県家の嫡流でしたが家学を徂徠学から朱子学に改めました。
この太華が重建した以後の明倫館は朱子学を奉じることになります。
 聖廟には朱子学を大成した六人の宋の大儒が祭られました。


・歴代の学頭

代 

姓名 

通称など 

生年 

没年 

学頭在職

学頭座所勤期間
(学問事務取扱)

学派

 1  小倉尚斎  長粛  元文二   享保四  享保四 元文二       朱子学
 2  山県周南  少助  貞享四  宝暦二  元文二  寛延元      徂徠学
 3  津田東陽  忠助  元禄十五  宝暦四  寛延元  宝暦四      徂徠学
 4  山根華陽  七郎左衛門  元禄十  明和八  宝暦九  宝暦十二  宝暦五    徂徠学
 5  小倉鄜門  彦平  元禄十六  安永五  宝暦十二  安永四  寛延元 宝暦九   徂徠学
 6  繁沢豊城  権右衛門  享保十七  寛政七  寛政四  文化三  安永四  寛政三  徂徠学
   山根南溟  六郎  ?  寛政七      安永四  寛政三  徂徠学
 7  小田村藍田  文平・直道  寛保二  文化十一  文化三  文化九  文化元  文化三  徂徠学
 8  中村華嶽  九郎兵衛  ?  天保七  文化九  文政五  安永九  文政五  徂徠学
 9  山県太華  半七  天明元  慶応二  天保六  嘉永三  安永九  文政七  徂徠学→朱子学
   平田涪渓  新左衛門  寛政八  明治十二      嘉永三 十月  十二月頃  徂徠学
 10  中村牛荘  伊助  天明三  明治二      嘉永三  嘉永五  徂徠学→朱子学
 11  小倉遜斎  尚蔵  文化二  明治十一      嘉永三 十二  安政二  徂徠学→朱子学
   飯田履軒  直方  ?  元治元      万延元    
   中村浩堂  百合蔵  文政六  明治二十八      慶応三    

引用:『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』 笠井助治著 吉川弘文館

各学頭の解説はこちらをどうぞ→ ◆明倫館儒学者小伝  (別ページに移動)


♪祭酒の覚え方
県の二祭酒
二の山根
三中村に
三小倉
田に因みある四祭酒の
外に繁沢祭酒あり
 山県周南 山県太華
 山根華陽 山根南溟
 中村華岳 中村牛荘 中村浩堂
 小倉尚斎 小倉鹿門 小倉遜斉
 沢田東陽 飯田右門 平田涪溪 小田村藍田
 繁沢豊城

 『明倫小学校百年誌』より引用しました。
これで全祭酒を覚えこませていたのでしょうか。
津田東陽が沢田東陽と誤植されているのは原文のママを引用しました。
『近世藩校に於ける学統学派の研究』によるところの学頭座などが紛れ込んでおり、文献によって食い違いがあるようです。



(より詳細な沿革(『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』 笠井助治著)による

 萩藩は藩校組織の整備に於て極めて早く、すでに享保四年学校体制の整った明倫館が創立された。これより先、五
代藩主毛利吉広元禄七年封を継ぐや儒者山県長白良斎・小倉尚斎等を重用して学問教育の振興を図り、学校の建設を
意図していたが、中道にして死去。嗣子吉元(豊浦藩主綱元長男)宝永四年襲封して父祖の意志をつぎ、徂徠門下
の俊英山県周南を挙げて侍講とし、享保四年初めて萩城三の郭内に文武稽古所を設けて明倫館と名づけ、聖堂を中
心に文武両舎を構え、小倉尚斎を初代学頭として学規学則を整え、藩士子弟の教育の場とした。
 初代学頭小倉尚斎は、在職十九年で元文二年死去し、山県周南がこれに代わって二代学頭となった。周南は徂徠門
下の偉才で、いわゆる蘐園八子の一人である。在職十一年間、諄々として、成徳達材をめざして藩士教育に挺身し、
その門下に個性豊かな英才を多く輩出した。これより、天保の中頃まで、徂徠蘐園の学風は、明倫館はもとより、支
藩の岩国・徳山・長府・清末の諸藩に及び、この蘐園古文辞の学風が周防・長門二州の全域を風靡した。
 天保六年に至って山県太華が明倫館学頭となった。彼は家学の徂徠学を捨てて専ら宋儒の学説を信奉し、従来の学
風を一変して朱子学説に改め、新たに学館の学則を定め、その中に白鹿洞書院掲示尊重の精神を加え、昌平校の学風
に模した。同じ年、十四代藩主敬親は、江戸邸内に有備館を設けて江戸在勤藩士にも学業を課した。さらに敬親は時
勢の進運と外辺警備の必要に照らし、家中藩士の教育上、これまでの学館が狭隘のため、嘉永二年に明倫館を萩江向
の地一万四千三百四十九坪の校区の中に重建し、総建坪二千七百三十四坪の大規模な学校を営んだ。文武両道にわた
る綜合教育場として、泮宮両塾の制・文武寮榭の結構、初等・高等の両教育課程を包摂する一大綜合大学としての形態
を具備した。また嘉永四年には明倫館以外の私学校も、小学については明倫館と校則を一にすることとして藩学に統
一し、文久三年には尚義場を山口に起こして陪臣の文武修行所となし、元治元年に至り、これも明倫館の附属校にした。
 藩主敬親は、居を山口に移してから、さきに文化年間、上田鳳陽の創設していた講習堂を鴻城明倫館と改称して藩
の支配とし、早く享保年間設立の郷校三田尻越氏塾(講習堂)をも明倫館支校の1つに加え、ともに育英の拠点とした。
一方、医学・洋学の面に於ては、天保十一年に医学所(済生堂・好生館・好生堂・好生局・医院・医学校と改名)を設けて、
医師の子弟に医学を、また家中藩士を選んで洋学教育を行ない、安政三年、これを明倫館内に移すと同時に、洋学所
を分離して博習堂と名づけ、西洋の科学技術を講習した。田原玄周・青木研造等が研究教授の任に当たり、大村益次
郎も嘗て御用掛・教授に従事し、西洋の兵制・文物の導入に努めた。


 長州藩における教学上特筆すべきことは、藩国老・重臣の建営した郷校の発達と、軽率以下庶民教育の開発である。
郷校に次の如きものが早くから発達した。
須佐益田氏の育英館(享保年間創立・阿武郡須佐村字横屋町)、
阿川毛利氏の時習館(宝暦三年・豊浦郡阿川村)、
右田毛利氏の時観園(学文堂。文教館)(寛永五年・佐波郡右田村)、
大河内粟屋氏の敬学堂(享和元年・熊毛郡大河内村)、
吉敷毛利氏の憲章館(文化二年・吉敷郡吉敷村)、
安田宍戸氏の徳習館(文化六年・熊毛郡安田村字天王)、
大野南毛利氏の弘道館(文化十一年・熊毛郡大野南村)、
大内益田氏の学習斎(天保二年・吉敷郡大内村)、
宇部福原氏の菁莪堂(天保年間厚狭郡宇部村)、
阿月浦氏の克己堂(天保年間・熊毛郡阿月村)
吉田山内氏の育生堂(年月不詳・厚狭郡吉田村)、
三輪井原氏の縮往舎(年月不詳・熊毛郡三輪村)
等、郷校として学規学則を確立し、在郷藩士及び庶民共学の機関として展開し、幕末維新期、長州の多事多難な際、
学事と武事ともに振起し、維新の原動力となった。
 また藩主敬親は卒族以下庶民の教育に力を入れ、天保十三年、明倫館の附属校として、萩城下江向今宮八幡筋に敬
心堂(初め心学舎と称す)を設け、軽卒・庶民を収容して学問教化に努め、異常の盛況をみた。そこで、前にも述べた
ように、嘉永四年には、明倫館以外の私学校に令を下して校則を明倫館小学舎の規定に準拠せしめ、教育の統一とそ
の振興を図った。これは長藩が率先して一藩士民の普通教育に着手した一特色である。さらに慶応三年、令を発し領
内諸郡の代官所在地に郷校を作り、卒族以下平民の子弟の就学を督励した。


 明倫館は享保四年の創設当初から徂徠学を奉じたが、元文二年の明倫館功令に、

「昔我徂徠先生、年方四十、始修ニ古文辞_蓋十年作ニ弁道_、先生之於レ文也、可レ見焉耳、諸生遊ニ館下_三年為ニ一限
 僅得ニ千有余日_、白駒之過可ニ立而竢_、朝夕孜々務就ニ功令_、猶且恐レ不レ及焉、」

とある。これは学頭山県周南の撰である。爾来、津田東陽・山根華陽・小倉鄜門・繁沢豊城・山根南溟・小田村藍田・
中村華嶽等、周南の学統を紹述して徂徠学を奉ずること百二十年余。天保六年山県太華学頭となり、嘉永二年明倫館
重建を期に、宋学によって生徒を教授することとし、白鹿堂書院掲示を学規に加え聖廟に周・邵・ニ程・張・朱の六子を
従祀して朱子学に改変し、その後孝経四書は明倫館点本、五経は後藤芝山本を用いることとなった。しかし尚、徂徠
古文辞の学風は明治維新まで潜在した。この明倫館学風の改変は、防長全土に波及し、支藩岩国養老館・徳山鳳鳴館
長府敬業館・清末育英館をはじめ数多くの郷校が嘉永期一斉に徂徠学から朱子学へ学風転換を行った。その間学派の
党争はあまり見られず、防長ニ州挙国一致の教学体制が窺える。