◆明倫館概要
漢学は基本的に儒学を学びます。哲学論・倫理論・経世済民論・漢詩・文章・歴史等です。
音楽は、古代中国では教養として欠くべからざる教養でした。二代学頭山県周南が属する徂徠学派は
この音楽の役割を重要視しており、また当時の藩主宗広も音楽教育を奨励しました。そのため当時の
萩城下は「糸竹の音、洋々として耳に盈つ」状態だったそうです。
また太平の世が続き緩んだ武士の綱紀粛正のための意図から、武の面にも力が入れられていて、講義
が終わった後は、終日武芸の稽古が課されます。
余談ですが、どうも昔から勉強ばかりしすぎると病気になると言われていたようで、吉田松陰の手紙の中に
学問とあわせて剣術の稽古をしているので病気になりません、といった類のものがあります。
また、合わせて「養老乞言」の礼が執り行われました。
武家で七十以上の老人を五人、庶民で八十以上の老人を四人、いずれも学徳の高いものを明倫館に招き
ます。藩主は酒食を共にして老人を敬い、その言に耳を傾け、記念品を下賜しました。
朱子学と徂徠学は互いに批判しあう間柄です。周南に即して言えば当然他の朱子学者との衝突や、また藩主
から林家(朱子学)への入門を強要されるといった摩擦もありました。彼はこのような難局に対し
「来者来 去者去 若夫疑民於河漢者 吾豈敢」(『講学日記』前文)
(来るものは来たれ、去るものは去れ。どこまでも果てしなく疑うような人は私にはどうしようもない)
という態度で接し、また林家へは師、徂徠の承諾を得て形だけの入門をしています。
苦労の結果、周南の晩年頃の明倫館は学風が徂徠学にほぼ統一されていたようです。
天保六年(一八三五)に至り、学頭であった山県太華は山県家の嫡流でしたが家学を徂徠学から朱子学に改めました。
この太華が重建した以後の明倫館は朱子学を奉じることになります。
聖廟には朱子学を大成した六人の宋の大儒が祭られました。
・歴代の学頭
代 |
姓名 |
通称など |
生年 |
没年 |
学頭在職 |
学頭座所勤期間 |
学派 | ||
1 | 小倉尚斎 | 長粛 | 元文二 | 享保四 | 享保四 | 元文二 | 朱子学 | ||
2 | 山県周南 | 少助 | 貞享四 | 宝暦二 | 元文二 | 寛延元 | 徂徠学 | ||
3 | 津田東陽 | 忠助 | 元禄十五 | 宝暦四 | 寛延元 | 宝暦四 | 徂徠学 | ||
4 | 山根華陽 | 七郎左衛門 | 元禄十 | 明和八 | 宝暦九 | 宝暦十二 | 宝暦五 | 徂徠学 | |
5 | 小倉鄜門 | 彦平 | 元禄十六 | 安永五 | 宝暦十二 | 安永四 | 寛延元 | 宝暦九 | 徂徠学 |
6 | 繁沢豊城 | 権右衛門 | 享保十七 | 寛政七 | 寛政四 | 文化三 | 安永四 | 寛政三 | 徂徠学 |
山根南溟 | 六郎 | ? | 寛政七 | 安永四 | 寛政三 | 徂徠学 | |||
7 | 小田村藍田 | 文平・直道 | 寛保二 | 文化十一 | 文化三 | 文化九 | 文化元 | 文化三 | 徂徠学 |
8 | 中村華嶽 | 九郎兵衛 | ? | 天保七 | 文化九 | 文政五 | 安永九 | 文政五 | 徂徠学 |
9 | 山県太華 | 半七 | 天明元 | 慶応二 | 天保六 | 嘉永三 | 安永九 | 文政七 | 徂徠学→朱子学 |
平田涪渓 | 新左衛門 | 寛政八 | 明治十二 | 嘉永三 十月 | 十二月頃 | 徂徠学 | |||
10 | 中村牛荘 | 伊助 | 天明三 | 明治二 | 嘉永三 | 嘉永五 | 徂徠学→朱子学 | ||
11 | 小倉遜斎 | 尚蔵 | 文化二 | 明治十一 | 嘉永三 十二 | 安政二 | 徂徠学→朱子学 | ||
飯田履軒 | 直方 | ? | 元治元 | 万延元 | |||||
中村浩堂 | 百合蔵 | 文政六 | 明治二十八 | 慶応三 |
引用:『近世藩校に於ける学統学派の研究 下』 笠井助治著 吉川弘文館
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♪祭酒の覚え方
県の二祭酒
二の山根
三中村に
三小倉
田に因みある四祭酒の
外に繁沢祭酒あり 山県周南 山県太華
山根華陽 山根南溟
中村華岳 中村牛荘 中村浩堂
小倉尚斎 小倉鹿門 小倉遜斉
沢田東陽 飯田右門 平田涪溪 小田村藍田
繁沢豊城
『明倫小学校百年誌』より引用しました。
これで全祭酒を覚えこませていたのでしょうか。
津田東陽が沢田東陽と誤植されているのは原文のママを引用しました。
『近世藩校に於ける学統学派の研究』によるところの学頭座などが紛れ込んでおり、文献によって食い違いがあるようです。
とある。これは学頭山県周南の撰である。爾来、津田東陽・山根華陽・小倉鄜門・繁沢豊城・山根南溟・小田村藍田・
中村華嶽等、周南の学統を紹述して徂徠学を奉ずること百二十年余。天保六年山県太華学頭となり、嘉永二年明倫館
重建を期に、宋学によって生徒を教授することとし、白鹿堂書院掲示を学規に加え聖廟に周・邵・ニ程・張・朱の六子を
従祀して朱子学に改変し、その後孝経四書は明倫館点本、五経は後藤芝山本を用いることとなった。しかし尚、徂徠
古文辞の学風は明治維新まで潜在した。この明倫館学風の改変は、防長全土に波及し、支藩岩国養老館・徳山鳳鳴館
長府敬業館・清末育英館をはじめ数多くの郷校が嘉永期一斉に徂徠学から朱子学へ学風転換を行った。その間学派の
党争はあまり見られず、防長ニ州挙国一致の教学体制が窺える。